top of page
1968年 阪大テニス同好会の創設

 同好会が創設されたきっかけは、全学連による大学封鎖(1967年12月~翌年初秋)だったようです。この間、大学はバリケードで封鎖されており、当然授業は行われていませんでした。そういう状況の中、1968年の春か夏頃、高橋直久さん(1967入学:サブキャプテン)、今井信雄さん(1968入学:初代キャプテン)、林さん(1968入学:サブキャプテン)、木村さん(1968入学:マネージャー)の4名で創設、スタートしました。当時、揚さん(留学生で高橋さんの学友)が住んでいたトーメン豊中寮(服部)のアンツーカー2面を、平日、無償同然でお借りして活動されていました。
 発足翌年の1969年の夏には、米子湊山公園のコートを借りて、大山寺(大山の麓)で第1回目の合宿をされました。創設時の4名も含め、総勢20人程度で実施しております。

img044-thumbnail2.jpg
img027-thumbnail2.jpg
img042-thumbnail2.jpg

当時は、みんなで話し合い、以下の3点の方針が決められました。

 1. 他校の学生は入れない
 2. 同好会リーグには、入らない
 3. 2年生から同好会のキャップテンを選出する
 1970年前後には、一気に会員数も増えたようです。名簿を見ると、1973卒が13名、1974卒が18名となっています。合宿も春、夏、秋の3回実施されており、昼間のテニス、夜の麻雀など、青春時代を満喫されているようです。Try Again 創刊号に、そのあたりが記録されています。

1974年 Try Again 創刊第0号の創刊

 同好会発足から6年後、Try Again の創刊号が発刊されました。同好会誌を発刊する動機やきっかけは思い出せません。ただ、会誌を通じてテニス以外に会員のことを少しでも知り合えば、同好会としてもっともっと良い集まりになるだろうと頭のすみにあったのかもしれません。

 『Try Again』はあれこれ考えた訳ではなく、自然と浮かんだタイトルでした。創刊号は1号ですが、あえて0号としたのも次号はないだろうと正直考えていたからです。表紙のデザインも稚拙でセンスなく、どんな内容なのかも全く想像できず、いざ原稿をあつめて雑誌に仕上げて読んだとき、皆さんの文才に驚くと同時に、なかなか良い出来栄え(表紙以外)だと感じた次第です。

 次号(創刊1号)の編集を1年後輩の市村さんに託したものの、原稿が集まるかしらと思ったのを覚えています。名簿を併記したので、会誌の内容もさることながら名簿としての役割は果たせるかなと納得していました。2号、3号、・・・と次々に発刊されたことは、創刊したものにとってこの上ない喜びとなったのは言うまでもありません。 

1976年 阪大テニス同好会OB会が発足

 Try Again第9号の51ページにs56年卒の蔵田さんが『OBからのメッセージ』のタイトルで書かれた記事があります。清水の呼びかけでOB会が結成され、そこには規約や活動予定などが記されていますが、規約や行動予定を定めた(文章化)ことは忘却のかなたです。同期の卒業生に声掛けして、呑み会を持ったことはおぼろげながら覚えていますが、それがきっかけと言えばきっかけかも知れないと思い出しています。とてもとてもその後のOB会の発展を想像だにしていませんでした。1981年卒の黄金世代(安福さんが会長を務め、テニスも強く運営も本格化し)あたりから阪大テニス同好会もOB会も組織として立派になっていったと思います。

Try Again 9_OBページ.jpg
1978年 同好会リーグへの加盟

 創設時、同好会リーグには入らないと決められたので、試合ができるのは年に1回実施される北中杯しかありませんでした。対戦相手は同好会内の限られた人で、テニスのレベル向上には不十分であったことは、多くの人が薄々感じていたことでした。
 1977年11月の日置川合宿での座談会で、同好会の課題について自由な発言が求められた場で、安福さんから「何故同好会リーグには入らないんですか?」という発言がありました(Try Again第2・3・4号 P.62)。これをきっかけに、練習の成果を発揮できる試合の機会を増やすことや、他校の同好会とも交流することを目的に、同好会リーグに入る方向で検討することとなりました。
 翌年、同好会リーグ加盟に必要な『会則』を整備し、同好会リーグ担当幹事として河瀬さんと尼崎さんが中心となって同好会リーグへの参加準備を進めました。その年の新歓コンパで会員の承認を得て、懸念となっていた加盟が実現しました。
 創設時、同好会リーグには入らないと決められていた理由が、「対抗戦のため、選手の練習時間が多くなり、メンバーの平等の練習が少なくなる」というもので、当時は団体戦を想定されていたようです。そのため、まずは個人戦に限って参加することとしました。こうして、同好会リーグの様々な試合に参加できることになり、同好会における試合環境は大きく変化しました。その後、団体戦や関東同好会連盟との交流戦にも参加できるようになり、同好会活動の幅が広がっていきました。

Try Again 234_P62.jpg
1980年頃 この頃の年間活動

練習:

月、水、木、土の週4回。平日は、庄内にあった富士フィルムのコート(年間数万円の費用でお借りしていました)、土曜日は万博のコートで練習をしていました。

コート取り:

テニスブームで、万博のコートを取るために、1、2回生は朝早くから万博コートに並びました。始発前の早朝5時半集合。試合コートの確保の際は、金曜日から徹夜で並ぶこともあり、青春時代の良い思い出でした。

試合:

同好会内の最大イベントは秋に開催される北中杯。
対外は、連盟(関西学生庭球同好会連盟)主催の大会が、フレッシュ、ミックスW(5月)、ニューカレ(7月)、クラブ対抗(11月)がありました。大学対抗試合として京大戦、市大戦、和大戦などがありました。

合宿:

夏合宿(9日間)は山中湖の白銀荘が定宿でした。合宿最後の花火大会が懐かしい。一方、春合宿(8日間)の開催場所はいろいろでした。日置川や白浜などの和歌山方面が多かったように思えます。

コンパ:

6月に新歓コンパ、年明けには新年テニス大会&コンパ、3月になれば最後の追い出しコンパで締めくくりです。

​それ以外にも、庄内の帰りに肉食べ放題や、梅田の東通り商店街にはお世話になりました。

1983年 Try Again に『OBのページ』登場

 同好会創設から15年、OB会会員数も250名を超える数字になってきました。OB会創設の頃は、顔もよく知った仲間たちの集まりでしたが、ここまで大きくなると、秋のOB会開催以外はあまり活動のない組織になってきました。そのような課題に対して、1981卒の蔵田さんが、OB組織の見直しと現役との結びつきの強化に着手されました。
OB組織としては、OB会規約を見直し、年会費制から入会金制に変更し、財務基盤を強化(当時は、往復はがきで連絡していたので、お金がかかりました)。現役との連携強化の意味も含めて、Try Again に『OBのページ』を作ってもらって、OBの方の近況報告を掲載することになりました。

Try Again 9_OB.jpg
1988年 初めての『大OB会』開催

 同好会創設から20年を記念して、『大OB会』が開催されました。5年前のOB会改革の時から、一泊二日でOB会をやりたいという声がありましたが、皆さんへの声掛け、OB会での承認、場所の確保、会員への連絡など、様々な作業があり、ようやく20周年ということをきっかけに開催にこぎつけました。以下が、日程でした。

 「20周年記念テニス旅行」
 日時:1988年9月3日(土)・4日(日)
 場所:記念パーティ・宿泊 奥浜名湖ホテル
    テニス 東急リゾートタウン

125名の方が参加しました。私も参加したのですが、あまり覚えていません。情報や写真をお持ちの方は、outd.obkai@gmail.comまで連絡下さい。

20周年OB会.jpg
bottom of page